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笠原和夫「仁義なき戦い」私版脚註

序章:槇原とは、いったい何か? ~笠原和夫仁義なき戦い」、ト書き1行だけのシーン20を読む~

シーン20 山守組新事務所(住居兼用)の表
渋面の山守が槇原を連れて帰ってくる。

山守組の賭場で、広能が匕首をまじえて上田と格闘する場面(S-19)に続くのが、このシーン20である。脚本にはト書きの1行あるのみ。しかし、このたった1行が意味するところは大きい。

田中邦衛が演じる槇原政吉は、博徒・山守組の前進である土建屋・山守組の構成員ではなかった。坂井鉄也による、山守義雄は大阪の博徒・陸岡組にいたので「昔の縁筋に声かけたら、のれんを立てられんこともない」との発案で(S-16)、博徒山守組が創設される(S-17)。そこではじめて槇原は、山守との直接の縁を持つことになる。いわば槇原は外様なのである。

ちなみにS-5で、闇市に露店をだしている矢野修司、大柿茂男、そして槇原のもとへ取引をしに、「土木請負・山守組」のトラックで坂井鉄也、神原精一、川西保が現れる。この後者が生え抜きの山守組である。

外様の槇原が、S-20にして山守の側近となっている。とりたててシノギの才覚がないので山守の側にいるより他なかったのだろう。

それが第三作「仁義なき戦い 代理戦争」S-38では、武田・松永・江田に次いで「次云うたら(と槇原を指し)これで三千万は持ってますかな。あとのやつは一山なんぼの方です」と山守に経済力を評価されるまでになる。

また外様の槇原にとって、生え抜きの坂井や広能は嫉妬の対象であったろうが、もともと一緒に闇市で商売をやっていた矢野までをも、槇原は死に貶めることになる。(S-114)

 

渋面の山守が槇原を連れて帰ってくる」、ここに“仁義なき戦い”の始まりがある。闇市の食堂でいっしょに雑炊をすすりながら馬鹿話する復員兵たちが、やがて互いに殺し合うようになってしまう。肩を寄せあう仲間のようでいて、嫉妬がからみあう間柄となっていく。ちなみに山守組のモデル・山村組には、「広島では岡の舎弟になるな、呉では山村の若衆になるな」(「『仁義なき戦い』調査・取材録集成」太田出版・105頁)、そんな評判が立つほどであった。

後年つくられる映画「その後の仁義なき戦い」の惹句は「昨日までは友達だった」、「仁義なき戦い」もまた、その物語である。 

笠原和夫は自らの脚本のなかでも「いれずみ決死隊」(1963年・未映画化)を気に入り、墓場に持っていきたいと言うほどであった。その脚本について、石原吉郎の詩の一節、「孤独はのがれがたく連帯の中にはらまれている。無傷なよろこばしい連帯といういものはこの世界に存在しない」を引きながら、「そういうものを踏まえたものが集団時代劇であって、『七人の侍』のような組織的に一丸となって行動を起こすというのは違うんだよ。そういう意味でも、これは『仁義なき戦い』の原型なんですがね。」  (笠原和夫「昭和の劇」87頁)と語っている。

“無傷なよろこばしい連帯”のほころびが、S-20のたった1行のト書き「渋面の山守が槇原を連れて帰ってくる」から見えてくるのである。

ドストエフスキー「悪霊」に、悪霊につかれた豚の群れが湖に雪崩れ込んで溺死する寓話(マタイによる福音書)がエピグラムとして掲げられている。「仁義なき戦い」は、盃を信仰と見れば、それを軽んじる無神論者の群れの物語ともいえる。

こうなりゃ五寸じゃけえ、山守先頭にいつでも来いや」、親だった者にこう啖呵を切る広能の姿は、まさに「悪霊」である。

 

以下、笠原和夫仁義なき戦い」の私家脚註を記す。私は「仁義なき戦い」のブルーレイボックスを持っているが、自室にテレビもブルーレイデッキもないため、それを見ることは出来ない。そのような暮らしぶりの私にとって、笠原和夫のシナリオこそが”私の「仁義なき戦い」“である。したがって、映画との差異が出るかもしれないが、それはそれである。

 

S-1 広島上空で炸裂する原爆
ナレーション「昭和二十年、日本は太平洋戦争に敗れた。戦争という大きな暴力は消え去ったが、秩序を失った国土には新しい暴力が吹き荒れ、戦場から帰ってきた血気盛りな若者たちがそれらの無法に立ち向かうには、自らの暴力に頼る他はなかった」

仁義なき戦い」は小池朝雄のナレーションに始まる。戦争で傷つき、さらには頼るものは我が身だけという時代を、それぞれが生き、あるいは死んでいった。

山守義雄を演じる金子信雄は、「仁義なき戦い」について、こう書いている。
私は『仁義なき戦い』のシナリオ第一部を読んで、三十年前の若い己れの姿を見た。幸い私には、芝居という心のよりどころがあり、あの混乱期に貧しいながら生きて行く才覚があった。しかし、それは恵まれた人間なのだ。私の弟は、復員したが職がなく、生来の気の弱さからギャンブルに身を持ち崩し、四十代の若さで死んでいった。
天皇陛下万才!』と二十歳で死ぬ身が、無意味に四十歳まで生き、二十年前と同じような無駄死をしていった。映画『仁義なき戦い』で見るとおり、任侠道の戦いで、多くの若者が傷つき殺されていった。これも私の弟と同じ戦後も残った太平洋戦争の傷痕である。そして、これが虚栄の市、平和な文化国家日本の為政者が、誇らしげに語る義理人情の任侠道なのだ。
私は見せかけの任侠道を、芝居『仁義なき戦い』によって、告発する」(キネマ旬報・1974年11月上旬号 春日太一「あかんやつら」文藝春秋・295-296頁より孫引き)

ここで金子信雄がいう“芝居「仁義なき戦い」”は、杉作J太郎他「仁義なき戦い 浪漫アルバム」徳間書店の91-92頁でその一端を知ることができる。74年10月24日から11月2日にかけて新宿紀伊國屋ホールで上演、深作欣二福田善之の共同演出の舞台で、金子はここでも山守を演じる。広能を室田日出男、新開を曽根晴美、坂井を峰岸隆之介、槇原を山城新伍、靖子を池玲子が演じ、さらに「親分を成田三樹夫」とある。この“親分”とは村岡組組長・村岡常夫のことであろう。また、一作目で死んでしまう坂井・矢野と、二作目に出てくる役名がならぶところをみると、呉抗争の仁義一作目と、広島抗争前夜を描いた二作目を合わせた話なのだろうか。

そもそも仁義二作目は一作目とおなじく、戦後直後の設定としたいところ、闇市などのセットの費用を抑えるために、昭和二十五年に話が始まるよう時代設定がなされている。舞台でこの二作を同時並行させていても不思議ではない。

また「この舞台では槇原は精神障害者の妻(公称は妹・演じたのは中尾ミエ)がいるなどと、ややドラマチックで、思想的な部分が強調されていたようだ(脚本は福田善之・明城照彌・中島紘一作)」とある。

なお、タイトル「仁義なき戦い」は、原作連載媒体の週刊サンケイ編集部の発案によるものである。(鈴木智彦「実録『仁義なき戦い』外伝」・83頁)

 

S-4 盆踊り大会の神社境内
ト書き「博徒・土居組の組長土居清、若頭の若杉寛、組員の野方守、江波亮一。いずれも海育ちの屈強な青年たちである。」

「海育ち」とは阿賀のことである。JR呉線で呉駅の次にあるのが安芸阿賀駅、その阿賀である。実際、土居のモデル・土岡博は阿賀を地元としている。正延哲士「最後の博徒」で知られる波谷守之もまた、阿賀の生まれで土居組のモデル・土岡組の若い者であった。

広島の喧嘩は呉から始まる。そして呉の喧嘩は阿賀から始まる」、まるで“ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきはテキサスで竜巻を引き起こす”のバタフライ効果のような言葉が残る。そんな土地であった。

また呉抗争を戦ったひとり、門広は「呉という土地柄、その中でもわしが生まれた広や、隣の阿賀という町は一種独特いうんか、気の荒い者がようけいる土地じゃった。わしらのように極道になった者だけやなしに、一般のドカチンなんかでも、めちゃくちゃやる者がおった」(鈴木智彦「実録『仁義なき戦い』外伝」・190頁)とインタビューで語っている。

S-5 闇市 
序章を参照。

 
S-6 ハッピー食堂の店内
川西「広能いうもんはるか!」

特飲街で喧嘩の仲裁に入るなり日本刀で斬られた山方を、居合わせたヤクザ・川西が開放するようにして連れてくる。これが復員兵・広能昌三の、ヤクザの世界への越境のきっかけとなる。

金田一耕助などを「よそもの系主人公」というそうだが、広能昌三もまた、「よそもの系主人公」と言える。


山方「き、斬られた……!」
笠原のシナリオといえば、三点リーダー+!、すなわち「……!」である。

たとえば、ラストシーンS-133の最後
広能「山守さん……弾はまだ残っとるがよう……」
山守「……!」
という具合である。その笠原名物「……!」が最初に出てくるのがこのセリフである。

 

S-8 特飲街の通り
広能「なんよう、わしが行こうか、のう。斬られたんはわしの友達じゃし、やってもみんで人頼ったらあんた等恥かこうが」

旅の者に仲間を斬られ、坂井、新開、神原、川西らが慌てている。とても太刀打ちできる相手ではないため、闇市の連中を呼んで手助けしてもらおうと話していると、広能はこう言って話に入ってくる。「やってもみんで人頼ったらあんた等恥かこうが」と。

広能はS-42で「第一、あんたが手にかけたら、ヒトが嗤いますよ!」と言う。土居を殺ると言い出した若杉に、盃を返したとはいえ、親だったものを殺るというのは「ヒトが嗤う」というのである。つづくS-43では「兄貴だけ知らせて、わしらに知らして貰えんのじゃ、格好がつかんじゃないですか!」と土居組との諍いを客分の若杉にだけいうのは「格好がつかん」という。

恥をかく、ヒトが嗤う、格好がつかない、広能の筋目、価値観がこれらから伺える。

なお、S-42で、盃を返したとはいえ、親だったものを殺るのは「ヒトが嗤う」といった広能だが、第四作「頂上作戦」ともなると、山守にむかって「マトにかける」類のことを言うにいたる。「こうなりゃ五寸じゃけえ、山守先頭にいつでもこいや」、この名セリフである。

話を第一作に戻す。
こうして殺しを請負った広能は、喧嘩相手を射殺するなり、声をあげる。
「おい、やったぞ!」

後に土居を殺害する時(S-58)の悲壮感にくらべると、実にカラッとしている。笠原和夫は「昭和の劇」で、「闇市時代の広能だと損得勘定はないからいいけど、やくざになって所帯を構えたり、組を構えたりすると、人を殺す時になると頭が真っ白になってきちゃうわけですね」と語っている。

 

S-11 鎮静房の中
若杉「こんなア(お前)何年打たれとるない?」
広能「十二年です」
懲罰房で一緒になった若杉と広能、腕をきって、互いの血をすすりあい、兄弟の盃をかわす。
この量刑を聞かれるシーンは、四作目、すなわち笠原の仁義の最終話となる「頂上作戦」のラストシーン(S-135 裁判所廊下)での会話、
武田「昌三……」「何年打たれたんない……?」
広能「七年と四カ月じゃ」
と対となっている。さすが、笠原和夫、たくみな構成である。これに名セリフ「間尺にあわん仕事をしたのう」に続いていき、笠原による「仁義なき戦い」シリーズは終わる。終生の兄弟分と交わしたやり取りと同じやり取りを終生のライバルと交わし、それでもって物語は終わるのである。

ちなみに「仁義なき戦い」における懲役で、いちばん重いのが二作目の山中で無期懲役、ついで四作目の打本会・三上達夫と川田組・野崎弘の懲役二十年である。四作目では暴力団に厳しくなった時代性を反映させてか、初犯なのに懲役二十年である。小倉一郎演じる野崎こそ、「間尺にあわん仕事をしたのう」ではないか。

 

若杉「のう、わしはこれから腹を切るけんのう、こんなアあちでちいと手伝うてくれゃ」

こう言ってカミソリ二枚で腹を切る。刑務所では治療できないため、刑の執行停止となり、仮釈放される寸法である。
こうした行為をジギリという。自らを切るからジギリである。
これのすごいのが本堂淳一郎「『兇健』と呼ばれた男」幻冬舎文庫。小倉のヤクザ・大長健一の生涯を書いたものである。ここに、67日にわたる絶食や牛乳を自らの体に注射して身体の異常を引き起こして刑の執行を停止させるジギリが書かれている。

また、美能幸三「極道ひとり旅」に「当時、吉浦拘置所では、わざと眼の中に淋菌を入れて保釈で出るのが流行した」(150頁)とある。これもジギリといえる。

 

S-16 闇市バラックの屋根裏部屋
坂井「ほうじゃけん、わしらで団結してしたいことしちゃりゃええんじゃ」

笠原の「仁義なき戦い」1-4作には広島弁接続詞「ほうじゃけん」が全部で10回出てくる。その最初がこの場面。10回の内わけは、一作目…1回(この坂井)、二作目…1回(大友勝利)、三作目…4回(槇原・山守・広能・大久保)、四作目…4回(武田、江田、谷口、打本)、三作目から急増するあたり、シナリオを書いているうちに広島弁にこなれていったのが見てとれる。

 

広能「天皇陛下いうてもコローと人間になってしもうたし」

この虚無感はS-1の項に記した、金子信雄の弟そのものであったろうし、よりどころを失った人間こそ、笠原和夫が書きたいそれである。

右にも行けない、左にも行けない、自分の道を行こうとすると、両方から殺されちゃう。そういう人間があるということを、僕は終戦直後からずっと持ち続けているんですけどね」、これは「昭和の劇」での「県警対組織暴力」の久能徳松についての笠原の言葉である。同じく文太演じる広能も同様だろう。なし崩しでヤクザの盃をうけ、その盃を返したり、受け直したりしながら、戦後をいきていく。

 

S-17 ハッピー食堂の二階広間
山守組の盃事の場面である。こうして博徒・山守組は誕生する。山守のモデル・山村辰雄が自分の組をもったのは42歳のときのこと。「仁義なき戦い」を撮った当時の深作欣二も、奇しくも42歳であった。ちなみに松方弘樹が「元気が出るテレビ」に出演しはじめるのは、42歳の年である。

 

S-20 山守組新事務所(住居兼用)の表
序章に掲出。

 

S-23 料理屋の一
中原「知っての通り、この町にはまだ海軍関係の隠匿物資が五百億円がとこ眠っとるんですよ」

M資金のような話であるが、実際、呉には豊富な海軍の物資があった。鈴木智彦「ヤクザのカリスマ」ミリオン出版の91・92頁より引用、紹介をする。「海軍の一元管理の元であっという間に巨大な経済圏を形成するに至った呉は、敗戦によって絶対的な支配者を失い、一気に無政府状態に陥るのである。膨大な軍需物資が不完全な施設に山積みされていたため、全国各地から復員くずれ、チンピラ、詐欺師、窃盗団、愚連隊などが集」まる。すなわち、軍事都市であったがゆえに物資が豊富にあり、軍事都市であったがゆえに敗戦後、支配者を失ってアナーキーな状態で、それらの奪い合いとなったのである。

呉の復興は、S-4で取りあげた阿賀から始まる。そのため、ここを地元とする土岡組がチカラをつけることとなる。出遅れた海生逸一(映画では長老・大久保)はもともと「戦前から続く博徒組織で、広島ガス阿賀工場の荷役業務を請負う港湾ヤクザで、のちに土木業にまで進出、土岡組とは荷役業務の権利を巡って対立抗争を繰り返していた」(前掲書)。海生は海生・山村組(映画では山守組)・大原組の連合軍で巻き返しをはかる。

これが映画では、中原市議・大久保・山守組vs.金丸市議・土居組の利権争いとして描かれる。S-23はまさにその場面である。

この大久保のモデル・海生逸一について、鈴木智彦「実録『仁義なき戦い』外伝」にはこのようにある。「山村組・山村辰雄組長は、権謀術数の権化のように描かれるが、その大半は海生の意を汲んだもので、彼は海生の意思の実行者に過ぎない。」75頁 また海生は美能幸三に「わしのことは書かないでくれ」と頼み、美能がそれを呑む。その美能は海生について書けば「あの抗争の全貌が分かる」と言っている。(同書・同頁)

この呉の事情は、戦後ヤクザとは何か、ヤクザ抗争とは何かを教示してくれる。呉における軍需物資を、関空中部国際空港など空港建設に置き換えれば、山一戦争以降における山口組の内部抗争の歴史になろう。

 

これは沖縄ヤクザの歴史にも通じる。沖縄には戦前、ヤクザがいなかった。寄生しようにも寄生する富がなかったのである。ところが敗戦による米軍占領によって、米軍の資産という富が立ち現れる。これを略奪する「戦果アギャー」が後に沖縄ヤクザへとなっていく。これについては洋泉社ムック「沖縄ヤクザ50年戦争」の第一部に詳しい。

なお、呉市の戦後直後の公共事業としては、荻野一の名が外せない。
荻野は「終戦直後、GHQから、広島県呉市沖の瀬戸内海に堆積していた旧日本陸海軍の砲弾処理作業を請け負い巨額の富を得る」(wikiより)、こうして得た金を原資にして、荻野は山陽特殊製鋼を買収する。

この人物は後年、山崎豊子華麗なる一族」の万俵大介のモデルとなる。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E9%87%8E%E4%B8%80

 

S-34 「姫」店内
山守「あのクソよごれが!」 

大久保の頼みで山守組が金丸市議を拉致したことを、ライバル土居組にすっかり唄って(しゃべって)しまった神原が、山守らが密議するバーを訪ねて来てのセリフである。

仁義なき戦い」には「よごれ」が3回出てくる。その初めがこの場面。罵倒語「よごれ」は、大阪のお笑いタレントがよく使うので関西弁と思いきや、そうでもないようだ。

他2回は、「広島死闘篇」での大友勝利のセリフ(S-106おどりゃア、裏切りよって、こンクソよごれが、ぶッ殺しちゃる!!」)と、「頂上作戦」の山本のセリフ(S-103おどりゃア、クソよごれッ!!」)である。

なお、この「頂上作戦」のS-103というのは、敵対する打本組の襲撃に遭い、車で逃げる武田らの車に襲撃した後に警官に追われる打本組の組員(柳井)が飛び乗ってくる場面である。これは武田のモデル・服部武が笠原に語った逸話が元になっている。

ちなみに安藤昇と情婦とされる山口洋子が銀座で営むクラブの名前もまた、「姫」であった。

 

S-42 広島城
若杉「お前のおやじが魚市場の理事をやっとろうがの、その市場の連中を博奕場へ引っ張り出したりで、出鱈目しやがるんじゃ」

山守は魚市場の理事となっている。

 ヤクザと魚市場とは昔から関係が深い。山口組にしても、もともとは「大島組からのれん分けの形で独立、初代の後を継いだ実子の山口登組長は、神戸市に新設される中央卸売市場の利権を巡って大島組と抗争になり、死者を出しながらもその利権を獲得した」(鈴木智彦「ヤクザのカリスマ」134頁)

また関東に話を移すと、佃政一家の例もある。
(参考)鈴木智彦twitter https://twitter.com/yonakiishi/status/667468501519495168

 

S-42
広能「ヒトが嗤いますよ
S-8参照

 

S-43
広能「格好がつかん」
S-8参照

 

S-45 広島・特飲街の一軒・一室
「(うわ言のように)……あとがないんじゃ……あとが……」

土居殺害を請負った広能が、売春宿で娼婦を抱く場面である。この時、広能の背中に彫られた鯉の刺青がうごめく。

広島と鯉といえば、広島カープであるが、これは広島城の別名が鯉城であったことに由来する。では、広能の刺青が鯉城に由来するかといえばそうでもない。鈴木智彦「ヤクザ1000人に会いました」によると、鯉の彫り物は「博奕でこい、喧嘩でこい」で縁起がよく、広島ヤクザに好まれるとある。また溝口敦「武富士 サラ金の帝王」によると、武富士創業者・武井保雄も鯉の刺青をいれているEE JUMPのユウキも首に鯉の刺青を入れている。

また、ここから土居殺害までの流れは、笠原和夫「昭和の劇」によると、別の機会に取材した会津小鉄会の高山登久太郎の話が反映されている。

 

S-47 村岡組本宅の一室
松永、広能の拳銃を取って、
松永「こりゃ、モーゼルの三十二口径か。こがなこまい口径(あな)じゃ役に立ちゃせんよ。(略 大型拳銃を取り出して)四十五じゃ。喧嘩いう時はこれくらいのもんじゃなけにゃよ」
垣内「わしのは三十八じゃ」

 持参した拳銃を松永に酷評された広能、S-53でこっそりと松永の拳銃と取りかえて土居殺害に用いる。その後、笠原のシナリオでは1発を土居のお供に、残りを全弾を土居に打ち込むが、土居は撃たれながらも逃げまどい、しばらく生きながらえる。これではわざわざ45口径の銃器に変えた意味がなくなり、笠原のシナリオには無駄が生まれる。この点を含めて、映画ではこの土居殺害の場面は脚本と大きく異なる。

 

S-52 村岡組本宅・一室
広能「頭が重うて……おい、クスリないか?」
垣内「ヒロポンか。二階にいる若いもんに云や分かる」

 広能が土居を殺るために、広島の村岡組本家に来た場面である。

後々、覚醒剤をめぐって坂井と新開・有田が殺し合いにいたるが、この時点ではまだヒロポンを気軽にあつかっている。もっとも現代暴力団では売るのはご法度、打つのは個人の問題とも言われる。なお覚醒剤が禁じられるのは1951年に覚せい剤取締法の施行によってであり、美能幸三が土居のモデル・土岡博が撃つのは1949年のこと。ただし映画と異なり、土岡博は一命をとりとめる。

また、このS-52に限らず、広能が土居を殺るために広島の村岡組本家にいく場面はシナリオと映画とがいろいろと異なる。(S-47も参照されたい)

笠原のシナリオと映画とでだいぶ違う箇所は、村岡邸での土居の射殺、出所した広能と坂井の再開、広島での矢野の射殺、……これらが共通するのは、笠原のシナリオではそれらのエピソードの中で場所を変えているのを、深作は場所をまとめるなどして、尺を削っていることである。このあたりは深作欣二の演出によるものなのか、シーン数・ロケ地を減らそうとする進行管理の結果なのかはわからないが、どれも映画のほうがまどろっこしさがなくて、いい。

 

S-56 附近の闇市マーケット
土居「待てい、待てッ、話しゃ分る、のう、話しゃ……!!」
広能、全弾射ち込む。

広能は松永の上着のポケットに呑んであった大型拳銃と自分のモーゼルとをすり替え(S-52S-47も参照されたい)、その拳銃で土居を射ちまくる。

その際に拳銃の弾をすべて射つのだが、「仁義なき戦い」シリーズには全弾発射が多い。計6度ある。その最初がこの広能による土居射殺事件である。

その6場面とは…
1作目 S-56 同上 
1作目 S-87 山方の殺害
2作目 S-100 無人島の場面で大友勝利がライフルを全弾発射
2作目 S-119 情事中の高梨にむけて、山中が全弾発射
3作目 S-69  倉元、打本らを襲撃、逃げ込んだ車に向けて全弾発射
4作目 S-85 温泉旅館で開かれた同窓会に出席した岡島にむけて全弾発射

仁義ファンならお気づきだろう。小池朝雄が2度、全弾発射により射殺されている。2作目の高梨と4作目の岡島がそれである。

 

S-71 鈴江の実家・寝室と附近

若杉の最期の場面である。逃亡先に踏み込んできた警官ふたりを射殺したのち、1発、撃ち込まれて死亡する。

若杉のモデルは、大西政寛、“悪魔のキューピー”と呼ばれた男である。この大西の最期を書いたのが、鈴木智彦「血染めの代紋」洋泉社である。大西は最期、「ええか、どがあなことがあっても諦めたらいけん。人間、駄目じゃ思うたときが駄目なんど」、こう、岩城の家の子供に言い残し、その直後に警官に射殺される。

大西の母親は「遺体は頭のテッペンから腹まで二ツ割に解剖され、麻袋のように縫い合わされてあった。これが我が子かと目を疑った。」(笠原「『仁義なき戦い』調査・取材録集成」・196頁)この逸話は第三作「代理戦争」のラスト(S-103)、「この子いうたら……警察で解剖されて……お腹の中までカラッポにされて……ズタ袋みたいに縫い合わされちょってですけん……この子の中身は、何処に棄てられたんじゃろうか思うと……」となる。

 

S-76 大流行のパチンコ屋の表で景品買いの山守組の若衆
N「昭和二十五年、朝鮮戦争が勃発し、山守組は米軍の弾薬荷役を請負って一挙に巨額の資金を獲得して、名実ともに揺るぎない王国を形成した。だがそれと共に、膨張する傘下組員の統制は乱れ始め、その破綻の因となったのは、当時蔓延していた覚醒剤ヒロポンの密売事件であった」

ヤクザは、伝統的には博徒テキ屋に分けられる。(テキ屋の稼業人からすると、博奕は「稼業違い」となる。仁義なき戦い2作目「広島死闘編」S-33で大友勝利の父親の言葉「競輪は博奕じゃけん、博奕打ちのテラじゃろうが。神農道の稼業人が手をつけては、仁義が立たん云うちょるんど!」はまさにそのことを言っている。)

博徒はその名の通り賭博開帳が本来のシノギである。もちろん近代ヤクザは港湾労働者や土木工事の人足など単純労働者の手配師などもシノギとする。それが戦後、「仁義なき戦い」シリーズに見られるように競輪場の警備など「公」と持ちつ持たれつの関係となり、シノギの規模は格段に大きくなる。また、公共事業への介入もヤクザの大きなシノギとなっていく。きわめつけは覚醒剤の密売である。こうしたシノギが拡大・多様化していく様子を「仁義なき戦い」一作目・二作目は見せてくれる。

これを端的にこのシーンのナレーションは言っており、言うなれば「仁義なき戦い」シリーズとは、博徒が博打をシノギにするので収まらず、またシノギが拡大・多様化していくことでおきる戦後やくざの変容と、神戸二強の拡大、その2つの潮流が生むコンフリクトを、広島に凝縮して見せたものとも言える。

また本格的に仲間同士が殺しあう季節への突入したとのプロットポイントになっている。

 

S-83 料亭の広間
新開「それより、組全体で上がったカスリを公平にみんなに分配すりゃええじゃないの」
坂井の、賭博の盆のカスリは組に上納し、それ以外のシノギで得た金は上納金の対象から外して欲しいとの山守への提案に対して、新開は「おやじはおってもおらんでも一緒」になると批判し、さらにこう続けた。

このシノギの収入を皆でわけようというのに似た提案が、元山口組直参・盛力健児の自叙伝「鎮魂」にある。
日本全国の公共工事山口組で仕切ってね、これまでみたいに売り上げの全部を地元の組織が独り占めするうやのうて、そのうちの何パーセントかを本部にプール」し、「年間72億ほど本部にプールできたら、当時は直参120人ぐらいおったんかね、月々(平均)500万円くらい渡せるやないか(略)本部が直参から経費を徴収するんやのうて、逆に本部から直参に手当が出せるような仕組みはできんもんか」(231頁)

 

 S-86 小料理屋の奥座敷
金丸「わしは常々有田にもいうとるんじゃが男が世に立つ以上は、人の風下に立ったらいけん。一度舐められたら、終生取り返しがつかんのが世間いうもんよ。(略) のう、新開さん、あんたも男になりんさい」

金丸市議が新開をそそのかす場面である。こうしてすっかりその気になった新開は破滅にむかう。この「のう、新開さん、あんたも男になりんさい」と言われる新開を演じるのは三上真一郎である。その三上が、シリーズ4作目「頂上作戦」で「こんなもここらで男にならにゃア、もう舞台は回って来んど」(S-126)と若い者に鉄砲玉にいくよう、そそのかすことになるから、「仁義なき戦い」シリーズは面白い。

またこのセリフのエッセンスでいうと、「風下」といえば「広島極道は芋かも知れんが、旅の風下に立ったことは一辺もないんで」(「頂上作戦」S-115)が有名である。

笠原仁義にはもう一つ「風下」が出てくる。「広島死闘編」S-33での「村岡云うたらシビリやがって、おう、あんとなもんの風下に立ってよ、これだけ多勢の若いもんがおってから、センズリかいて仁義で首くくっとれ云うんか!」である。あの「わし等うまいもん喰ってよ、マブいスケ抱く為に生まれてきとんじゃないの」のシーンでのセリフである。

 

S-88
有田「若頭ともあろうもんがよ、人の茶椀盗むな!!」
山方が射殺され、それが有田のところに出入りする売人であったことから乗り込んできた坂井とシャブの密売でふたたび揉めて……

ここで注目は「茶碗」である。
ヤクザと茶碗、これに関する逸話を紹介する。

茶碗話①
頭、飢えた狼には盃も茶碗もありゃせんです。事と次第じゃ、親、兄弟だって喰い殺しますよ」、映画「北陸代理戦争」(脚本:高田宏治)のセリフである。

茶碗話②
他人の茶碗には骨がある。今日からおまえが一膳抱えるたんびに、義理というもんが付いてまわるようになる。この義理いうもんをよう返さんような男なら、人さんはおまえのことを乞食と呼ぶようになるど」、正延哲士「最後の博徒」に出てくる、波谷守之の父親が波谷にいう言葉である。波谷はS-4でも述べたように、「仁義なき戦い」の土居組のモデル・土岡組の若い衆であった。

茶碗話③
フト、その目が、共同流し場で一心に使った茶碗を洗っている広谷の後姿に留まる」、映画「県警対組織暴力」のS-54のト書きである。殺しをやったあと、どうせ逮捕されるなら文太演じる刑事にとアパートを訪ねてきたヤクザの松方弘樹に、文太は茶漬けを食わせる。その茶碗を自ら洗う松方弘樹の後ろ姿……、深作欣二最高のカットである。

茶碗話④
犬の茶碗で飯を食うつもりはないんで」、山口組分裂に関する宝島社の書籍「山口組分裂抗争の全内幕」の西岡研介による記事(29頁)に、神戸山口組の者が六代目山口組を割って出たことをこう表現する。 

 

S-95 床屋の店内(翌朝)
山守から相談があるとの呼び出しの電話に、「今夜はもう遅いけん、明日の九時に散髪してからそっちに回るわいの」と応じた上田、散髪中に有田から四発の銃弾を浴びせられ、死亡。

この朝の散髪屋での銃撃事件にヒントを得て生まれたのが、元気が出るテレビの「早朝バズーカ」である。(もちろん嘘)

 

S-105 旅館の座敷
山守「上田も死んで今、坂井の独り天下じゃ」

「一人天下」の読みは「てんか」でも「でんか」でも正しい。映画で金子信雄は後者で読でいる。なお、坂井のモデル佐々木哲彦の天下は四十日であったと笠原和夫「『仁義なき戦い』調査・取材録集成」にある。

 

利香「ねえ、昌ちゃん、今は矢野が一人でうち等庇うえくれとるんじゃけど、」

出所後の広能に坂井殺しを頼む場面、上田も新開も死に、坂井の“独り天下”となり、追いつめられた山守は広能に殺しを頼む。もちろん槇原は健在であり、山守にべったりであるが、山守の妻・利香は「矢野が一人」という。序章で述べたように、S-20で山守は槇原を連れ歩いている。その槇原がいながらも「矢野が一人」である。槇原は、坂井、広能、上田、新開、矢野、神原とは一枚格が下がるということである。

 

S-108 附近の寿司屋の中
広能「ほうや……じゃが、わしゃおやじから、あんたを殺れい云われて来とるんじゃ」
坂井「(凝然と)…………!!」
広能、脱ぎ捨てて置いた上衣をフト引き寄せる。途端に、血相を変えて椅子から飛び立つ坂井。
坂井「待てい! 待ってくれい! わしを射つのは待ってくれい!」

この場面はシナリオと映画は大きく異る。映画では、この場面に先立つ、山方の女・秋子のアパートで、このやり取りは行われる。また、映画では、広能が背広の内ポケットからタバコを取り出そうとするなり、背広の懐に拳銃を呑んでいると勘違いした坂井が慌てる。それがシナリオでは上記のように背広を引き寄せることで、坂井が慌てることになる。

この場面、シナリオ(広能が脱いだ上衣を引き寄せる)と映画(広能が懐に手をいれる)、坂井の慌てふためく振るまいは映画のほうが自然である。また、これは坂井の勘違いが滑稽に見えるが、広能は広能で危ういことをしている。もし坂井も拳銃を所持していたならば、広能は射殺されたかもしれないのである。暖簾兄弟のあいだがらとはいえ、不用意に懐に手をいれるのは、広能にとって命取りになりかねない。いわば広能昌は「ムショぼけ」していると言える。

またS-52を参照されたい。

 

S-114 広島・ある橋の袂附近
「おう、矢野さんじゃないの!」
矢野が誰かと二、三歩近寄った時、声の主の高野が車中から拳銃で狙撃。
橋ゲタに叩きつけられ、血を噴いて絶息する矢野。

脚本と違い、映画では村岡組の門前で事件は起きる。ただ、S-56で記したように「全弾発射」など複数発を撃つことの多い「仁義なき戦い」シリーズにおいて、この場面では脚本も映画も一撃で射殺しているのが目を惹く。

またS-52を参照されたい。

 

S-123 競艇場・役員室
山守「そがな昔のこと誰が知るかい!」

若杉の居場所を警察にチンコロ(密告)した疑いを広能に糾されての山守のひと言

「そんな昔のことは忘れた」、映画「カサブランカ」でのハンフリー・ボガートのセリフである。「そがな昔のこと誰が知るかい」と同じといえば同じだし、違うといえば違う。

 

S-129 ホテル・四〇三号室
坂井「山守の下におって、仁義もクソもあるかい」
坂井の殺りにきた広能、待ち構えられ、罠にかかるようにして拳銃をもった者に囲まれる。

坂井は広能にこう説教する。「昌三……こんなの考えちょることは理想よ。夢みたいなもんじゃ。山守の下におって、仁義もクソもあるかい

その広能は四作目で「この場にきて仁義もクソもあるかい! 山守トッたらわしも死んでやるよう!」(S-26)と言うにいたる。一作目のS129と四作目のS-26にある「仁義もクソもあるかい」、言われる方が言うことになるのである。

 

S-131 走る車の中
坂井「のう、昌三……わしらよ、何処で道間違えたんかのう……

笠原の取材に美能幸三は「『狭い呉の中でどうしてそんなに揉めるのか』とム所で聞かれた時にショックを受けた」と話す。(笠原和夫「『仁義なき戦い』調査・取材録集成」・35頁) また波谷守之は作家・正延哲士に呉の抗争について聞かれ、「皆こう、呉の街を肩で風切って歩きたかったんじゃ、それだけのことじゃと思います」と答えている。

この坂井のセリフは、山村組、土岡組、小原組、それらの若者たちの胸のうちを代弁しているのだろうか。

 

広能「……最後じゃけん、云うとったるがよ、狙われるもんより狙うもんの方が強いんじゃ……そがな考えしとったら、スキが出来るぞ……」

広能を殺しに連れだした坂井が感傷的なことを言う。それに対しての広能の言葉。

似た言葉に「なあ稲川、強い者には油断はあるが、弱い者には油断はねえんだ」がある。これは稲川会初代・稲川聖城に対して、その兄貴分・横山新次郎がいった言葉である。またヤクザ世界では「強い者は殺される」とも言われる。「仁義なき戦い」でいえば、槇原が生き延びるのはその言葉の裏返しであろうか。

 

S133 寺の本堂(幾日か後)
いきなり内ポケットから拳銃を抜き出し、射つ。
香炉を吹ッ飛ばし、供物の花を吹ッ飛ばし、灯明を吹ッ飛ばす。

坂井の葬儀に乗り込み、拳銃をぶっ放す。「仁義なき戦い」第一作のラストのシーンの広能である。

ちなみに今日のヤクザ社会では、義理の場での喧嘩・出入りはご法度である。それが破られるのが2001年の四ツ木斎場事件である。住吉会幹部の通夜がとりおこなわれる斎場に紛れこんだ稲川会系の組員が住吉会の幹部を射殺する。この事件がきっかけの報復合戦は凄惨をきわめ、死刑判決を受けるヒットマンを出すなどする。

なお、当初のシナリオは、広能が女と別れることで終わる。笠原和夫「昭和の劇」にて、荒井晴彦に「第一部では美能さんに言われて、女のエピソードを切ったということなんですけど、どんなエピソードだったんですか?」と話を振られて、「そう。広能と女の別れのシーンをつくったのかなあ。バーの女でね、どういう過程か忘れたけど、だんだん両方が不信に陥っていくんだけど、やっとラストのほうで女が広能を認めた時に、広能は女から離れていくという。」(298頁)と話している。それを読んだ、広能のモデル・美能幸三に「何だ、こりゃあ。俺はこんなこと、しとりゃせんぞ」と言われていまい、笠原は変更することとなる。この「バーの女」が「姫」の鈴江であったかどうかは定かでない。


またS-6も参照されたい。

 

最後に。仁義なき戦いを書いた男たち
  手記:美能幸三 83歳で死去
  脚本:笠原和夫 76歳で死去
  原作:飯干晃一 71歳で死去

小説家がもっとも短命であった。ちなみに深作欣二は72歳、津島利章77歳、文太81の世を去る。